2020年5月 ホワイトストーンギャラリー「コンテンポラリーアートとして華開く宋元画」より
「若き巨匠・婁正綱の世界展 “コンテンポラリーアートとして華開く宋元画”」展示風景
天才だけが到達できる高みがある。考えるまえに身体が動く、頭脳と身体とが本能的に直結している次元のことだ。およそ表現たるものすべて、舞い降りる天啓を具現化する技巧なくしては成り立たないが、その技巧の理想的な血肉化は、幼少期の限られた一時期を逃すと難しい。早期教育と、類まれなる閃きと身体性をもつ個体との出会い。これらの要件が揃って初めて、天才が生まれる。
神童として中国書壇に華々しく登場した婁正綱はしかしながら、名声や富といった世俗の価値に安住しなかった。「なぜ、自分はこの世に存在するのか」という根源的かつ壮大な問いが、彼女を捉えて離さなかったからだ。この問いは、何事からも妨げられぬ、独立した宇宙である。
名誉も地位も保証された既存の社会を捨て、1980年代に婁正綱は日本へ移り住む。そして、墨から顔料へと表現手段を変える。ただひたすらに描く。自らの生に答えを求めるように。
「若き巨匠・婁正綱の世界展 “コンテンポラリーアートとして華開く宋元画”」 ホワイトストーンギャラリー銀座本館での展示風景
飛沫の躍動、とぐろを巻く求心力、想像力を投影する余地をふんだんに残す余白---なるほど婁正綱の世界には、宋元画*に通底する中国のDNAも感じられよう。伊豆にアトリエを構える婁正綱は、大海原や自然の移ろいに感性を研ぎ澄ます。速度を内包する流麗な線描、一見偶然のように飛散する自在な筆致は、限界まで自己を見つめ、対話し、濾過された芸術家のパッションが、肉体化された技巧に乗ってほとばしり出た結露である。抽象は必然の成り行きだ。伝統を「汲む」のではない。現代芸術にこそ古典を活性化する力があるのだ。そして、それができるごく一握りの芸術家だけを、巨匠という。
カンヴァス上に華開く婁正綱の生の軌跡。そこには強靭な意志と、謙虚な姿勢とが絶妙な均衡関係で同居する。豪胆と繊細。偶発性と必然の中庸に浮かぶ宇宙。 若き巨匠の戦いはつづく。同時に宋元画は、かつてないほどの強度をもって刻々と更新される。